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音楽が調和をつくる理由

昨年から仲間と始めた「The Institute of Wild Intelligent and Liberal Arts(通称ウィル研)」は人の野性を研ぎすまし、ものを捉えていき、行動するということをテーマにしているのですが、そのウィル研で私は音楽の中にある「律」を深く考えることをテーマにしています。

ウィル研の名前にあるリベラル・アーツはローマ時代の末期に設定された自由七科(三学(文法学、論理学、修辞学)四科(幾何学、算術、天文学、音楽)※wikipediaより)が起源で、その内容は人が自由であるための学問とされています。 「人が自由である」の反義語は「奴隷」。奴隷ではない、自由な学問。そのような意味がリベラル・アーツの中にあるというわけです。

さて、このリベラル・アーツの中に「音楽」が含まれていることは私にとってとても興味深いこと。もちろん、現在の意味での「音楽」とは異なっているのですが、それにしても奴隷ではない市民のための自由な学問に音楽が含まれている。なぜでしょう?

音楽は音の羅列によってできています。1つの音が鳴ったすぐ後に時間に従って音が繋がっていくこと、これがメロディのようなものになりますが音、ひとつひとつの繋がる関係があって初めてメロディが出来上がっていきます。

例えばさくらさくらは音で言うと「ラ・ラ・シ・ラ・ラ・シ」。最初の音二つは同じ音、3つめは「ラ」より2度高い「シ」の音に上がっています。そのような関係性、ということです。

また、ひとつの音が鳴った時にそれに調和したり不調和だったりする和音がふっとつけられたりします。例えば西洋音楽だと「ド」の音をハミングしてる上から「ソ」の音をきれいに出すと調和したハーモニーが作られます。

そのようなことが1つの曲の中で調和、不調和を繰り返しながら起こるのですが、それが不調和を意図して作られる曲以外、大雑把(本当に大雑把です)大抵の曲は最後に調和するようにできているのです。

難しいことはいい、音楽は楽しんで聞くことができれば、歌えれば、演奏できれば、作ることができれば。もちろんそうです。しかし、音楽が「人が自由であるための学問」であったことを考えれば、それが何かを考えてみたい、と思ったのもこのウィル研を始めたいと思った理由の1つです。

残念ながら今から20年ほど前に亡くなったのですが、作曲家の武満徹さんのおっしゃった言葉で「作曲とは作ることではなく、自然に隠された見えざる姿の発見」というのがあります。この言葉を聞いた時そんなものなのかな、と思ったのですが、その言葉が年々重みをもって私の心に響くようになっています。 ということでこの言葉にもヒントが隠されているように思います。

ウィル研でこのあたりのことをからめつつ、ワードカフェを開催できたらなあともくろむ、ウスダなのでした。


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